教会の呼び名はいろいろあります。①「キリストの花嫁」。イエスが花婿で、教会は花嫁です。②「神の家族」。イエスを自分の救い主と信じた人は新しく生まれ変わり、神の子供とされます。神の家族である教会に加えられ、成長していきます。③「キリストの軍隊」。この世界には敵がいます。悪魔と悪霊です。彼らは人々を滅びへと向かわせようとしています。私たちは、霊的戦いをするために召されています。人々を悪魔の支配から神の支配へ移す働きが任されています。④「神の宮」。私たちが集まる所に、イエスが共にいてくださり、聖霊が臨在してくださいます。私たちは聖霊の宮です。私たちは礼拝する民として、神に賛美礼拝を捧げます。⑤「祈りの家」。私たちは、世界のためにとりなし祈ります。そしてもう一つ大事な呼び名が、「キリストのからだ」です。聖書にこうあります。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです(コロサイ人への手紙 1:18)。
教会は「キリストのからだ」です。御子イエス・キリストは「教会のかしら」です。イエスは地上生涯でご自身のからだを用いてミニストリー(働き)をされました。ご自身の口を用いて、神の国の福音を語りました。みことばを教えられました。ご自身の目を用いて、この世界をご覧になりました。ご自身の耳を用いて、人々の必要を聞かれました。ご自身の手を用いて、癒しのみわざをされました。ご自身の足を用いて、移動し、神の国を前進拡大させていきました。
今はどのようにしてイエスはご自身の働きをされるのでしょうか。復活して天に昇られ、父なる神の右に座し、今、この地上にからだを持っておられないイエス・キリストはどのように働きを展開していくのでしょうか。それは「キリストのからだ」である教会を通して、私たちを通してです。私たちを通して、キリストのからだである教会を通して、イエスは今も働きを継続しておられます。
サウロ(後のパウロ)が教会(クリスチャン)を迫害していた時に、ダマスコ途上でイエスが彼に現れ、言われました。「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」(使徒の働き 9:4)イエスは「サウロ。サウロ。なぜ教会を迫害するのか」とは言われませんでした。サウロが迫害していたのは、クリスチャンであり、教会でした。しかし、イエスは彼に「なぜ、私を迫害するのか」と言われたのです。教会とクリスチャンは、イエスと一つだからです。
キリストはかしら、教会はからだ。一体です。一つなのです。教会を傷つけ、弟子たちを傷つけるということは、イエス・キリストご自身を傷つけることになる、イエスを迫害することになる、ということを意味しています。
執筆中のパウロ
パウロは他の手紙で、教会が「キリストのからだ」であることを説明しています(エペソ1:23、Ⅰコリント12:27、Ⅰコリント12:14-21など)。ここに足、手、耳、目、鼻が出て来ますが、それぞれに働きがあります。歩く、掴む、聞く、見る、嗅ぐなど。それぞれに役割があり、お互いに必要な存在です。私たち一人ひとりに神から役割が与えられているので、その自分に任されていることを果たしていくことが大切です。言葉を変えて言えば、それぞれに賜物が与えられているということです(ローマ人への手紙12:4-8)。
それぞれに神から与えられている賜物は「キリストのからだ」である教会を建て上げていくために用いられるものです。大事なことが2つあります。それは一致と多様性です。まずは、一致。私たちは「一つのからだ」に統合されているということです。教会は使命、目標において一つに統合されていなければなりません。「教会のかしら」であるイエス・キリストは、私たちにはっきりと命じられています。それは「神を愛し、隣人を愛しなさい」という命令であり、また「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」という大宣教命令です。これらの命令がかしら(頭)から伝えられています。教会はこの命令に従っていかなければなりません。もう一つの大事なことは、多様性です。私たちは「一つのからだ」ですが、「多くの部分」から構成されています。それぞれの働きが大切です。
からだ、手や足は頭(かしら)の言うことを聞きます。その逆ではないはずです。教会とイエス・キリストの関係も同じです。「キリストのからだ」である教会は、「教会のかしら」であるイエス・キリストに従います。イエスが言われている、命じられていることを実行します。それが教会の働きです。教会のかしらであるイエス・キリストから命じられていても、からだが何もしなければ、私たちが自分に与えられている賜物を用いていかなければ、働きは進んでいきません
私たちがそれぞれからだの器官として働き、与えられている賜物を生かし、それが機能していくと、神の栄光が現わされていきます。その一つの例がマルコの福音書2章に出てきます。中風の人(半身不随で寝たきりの状態の人)が4人の人にかつがれてイエスの元へ連れて来られた話が記されています。この人はイエスによって癒され、神の栄光が現わされました。彼らが中風の人を連れて来た時に、聖書にはこのように書かれています。「イエスは彼らの信仰を見て」(マルコの福音書2:5)と。
中風の人は自分の信仰というよりも、自分をイエスのもとに連れて行ってくれた人たちの信仰によって、彼は罪が赦され、病の癒しを受けることができました。この人をイエスの元に連れて行った4人はそれぞれの賜物を生かしたのだと思います。
1.まずは「憐みの賜物」です。中風の人に同情して、かわいそうに思い、この人が癒されて欲しいと強く願った人がいました。そして、イエスの所に連れて行こうと言いだした中心的な人がきっといたはずです。人が癒されるための出発点は、憐れみの賜物によります。イエスのミニストリーもそうでした。悩んでいる人々や病で苦しんでいる人々をイエスが「かわいそうに思い」働きが展開されています。
2. 次は「奉仕の賜物」です。最初に4人のうちの誰かが憐みの心をもって「彼をイエス様の元へ連れて行こう」と言った時に、実際にイエスの元へ連れて行く人たちが必要でした。この人の言葉に心動かされて、「中風の人をイエス様の元に私が連れて行きます。私が手伝います」と言い出した人たちがいました。憐みの心をもった人ひとりでは彼をイエスの元へと連れて行くことはできません。実際にその人を担架に乗せていく人たちが必要でした。これが奉仕の賜物、仕える賜物です。時間と労力、エネルギーを一人の人の癒しと回復のために捧げました。
3.次は「信仰の賜物」です。ところが、彼らは思わぬ事態に直面しました。群衆のためにイエスに近づくことができなかったのです。諦めてしまう可能性もありました。「せっかく来たけど、これではイエス様に近づけない。諦めよう。また今度にしよう」と。しかし、この4人の中に「信仰の賜物」を持った人がいました。彼は言いました。「あきらめてはいけません。せっかく来たんだから、絶対にイエス様に手を置いて祈ってもらおう。どうしようか。そうだ、屋上に上って、屋根をはがして、穴をあけて寝かせたままつりおろそう。」凄い大胆な発想です。この「信仰の賜物」を持った人がいなければ、おそらく諦めて帰ったことでしょう。そうしたら、この中風の人はイエスに出会うことも、癒されることもありませんでした。
4.最後は「捧げる賜物」です。この大胆な発想は素晴らしいですが、この「屋根をはがそう」と聞いた時に、他の3人は反対してもおかしくありませんでした。「え、まじ、家を壊すってこと。で、どうするの。誰が弁償するの?」聖書には書かれていませんが、「私が弁償するためのお金を出しましょう」という人がいたと思います。声に出していないかもしれませんが、「まかせろ」と。そうでないと、皆さん、家を壊せますか。できないですよね。「大丈夫。お金のことは私に任せて」という人がいたんです。そうじゃないと、怖くて、とても屋根をはがすことはできなかったでしょう。一人の愛する兄弟、中風の人が癒されるために喜んで犠牲を払う人が必要でした。これが「捧げる賜物」です。人の救いと癒しのため、神の栄光のため、福音が前進するため、神の国が拡大するために、喜んで捧げる賜物をもった人がいなければ教会は前進できません。
このように、4人の人、4つの賜物が組み合わされることで、中風の人が救われ、癒されたのではないでしょうか。私たち一人ひとりは「キリストのからだ」である教会を建て上げるために、神に選ばれ、呼ばれました。私たちは教会(からだの一部分)を担う存在です。それは自分が属している教会だけのことではありません。神の国全体のための働きもあります。他の部分と組み合わされることで、私たちは他の人を助けることができ、神の栄光が現わされていきます。一人ではできないことが、協力することによって、実現していくことがあります。
私たち一人ひとり、自分自身が「キリストのからだ」である教会の大切な一つの部分を担うために神によって選ばれ、召されたのだということをしっかりと信じましょう。お互いに協力しましょう。そして「教会のかしら」であるイエス・キリストに従っていきましょう。
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