14 こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、21 教会により、またキリスト・イエスにおり、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(エペソ人への手紙 3:14-21)
「こういうわけで」(14節)、とは3:1の繰り返しで、2:22までに書かれていたユダヤ人と異邦人が一つにされ、神の家族となったことを受けています。使徒パウロは父なる神に祈ります(15節)。これは主の祈りと同じです。私たちも祈る時、「天の父なる神様」と呼びかけて祈り始めます。
パウロは3章16節~21節でエペソ教会のために祈っていますが、これは私たちの祈りでもあります。まずは、「内なる人」を強くしてください、という祈りです(16節)。聖霊によって、私の、私たちの「内なる人」を強くしてください、という祈りです。
Ⅱコリント 4:16にこのように書かれています。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。内なる⼈とは、外なる⼈と⽐べて、内⾯的な⼈、⼼とか魂とか、霊的な面の部分として解釈されます。コリント書での外なる人とは、私たちの肉体のことを言っています。人間は年をとれば、体が衰えていきます。外なる人は弱くなっていきます。それは避けられません。
近年、アンチエイジングに大きな関心が寄せられていると思います。年を取ることに対して、抵抗していくわけです。一定の効果があるのかもしれませんが、やはり限界があります。外なる人、肉体は弱まっていくという現実から私たちは逃れることができません。それに対して私たちの「内なる人」は日々新たにされることができます。聖化と言われます。聖められていくわけです。日々イエス・キリストの似姿へと変えられていきます。
ですから内なる人を強めてください、という祈りは、言葉を変えて言えば、「霊を強めてください、信仰を強めてください、日々聖めてください、イエス・キリストに似た者へと変えてください」という祈りと言えると思います。どのようにそれが可能となるのでしょうか?御霊によってです。自分の力ではすることができません。ですから、人生に、生活の中に、聖霊を歓迎することが何より大切です。
同じようなことが別の表現を使って17節で言われています。キリストが私のうちに住んでいてくださいますように、という祈りです。イエス・キリストを信じることによって、主イエスは私たちの内側に住んでくださっていますが、一時的ではなく、時々訪問するという関係ではなく、ずっと私の心の内側に住んでいてくださいという祈りです。
クリスチャン生活は、神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置いたものです(17節)。神の愛、イエス・キリストの愛は人知をはるかに越えています(19節)。神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解することができますように、と使徒パウロはエペソ教会のクリスチャンたちに願ったわけですが、これは神の私たちに対する願いでもあります(18節)。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを見ていきましょう。
1.愛の広さ
「宇宙的な広さ」と言った人がいましたが、広さとは、神の無限の包容力を示していると思います。
この広さは、全人類に広がっているキリストの愛です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネの福音書3:16)。ユダヤ人だけでなく、異邦人にも(日本人にも)救われる道が開かれました。そして、私たちにも救いの道が開かれたのです。ここに神の愛を見ることができます。
イエスは十字架の上で、「彼らの罪をお赦しください」と祈られました。どんな人でも、イエス・キリストを仰ぐならば救われます。神に招かれていない人は誰一人いません。2023年、神は一人でも多くの人が御子イエス・キリストを信じ、救い&永遠のいのちを受け取ってもらいたいと願っています。私たちの家族、親族、友人たちが救われるようにとりなし祈っていきましょう。
この広さ、長さ、高さ、深さという4方向は、もちろんキリストの愛のことなのですが、私たちに適用するならば、私たちの信仰の4つの方向とも言えます。私たちが他の人たちのために信仰を持って祈るということです。リストに挙げられている人たちは、自分たちに救いが必要だとは思っていないでしょう。しかし、どんな人にも救いが必要です。なぜなら、イエス・キリストの十字架の血潮によって罪が赦されなければ、聖い天国へ入ることができないからです。主イエスの復活によって死に打ち勝つ永遠のいのちを得なければ、死に飲み込まれてしまうからです。
イエスの愛は広いです。私たちも狭く考えないで、広く考え、信仰を持ちましょう。この人は難しい、あの人も救われないだろうではなく、この人もあの人も救われると考え、祈っていきましょう。祈りには力があります。ですから、「救いの扉を開いてください」と、あきらめないで祈りという鍵を用いていきましょう。
2.愛の長さ
神の愛は、永遠の愛です。長さは、忍耐力をあらわしているキリストの愛と言えます。
ある時、ペテロはイエスに質問しました。「主よ。兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは答えました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言います(マタイの福音書18:22)。ペテロは七度までだって凄い忍耐を必要とすると考えたわけです。私たちもそうだと思います。しかし、イエスは違いました。七度を七十倍赦しなさい、490回というより、無限に赦しなさいと言われたのです。これが主イエスの愛です。私たちも何十回、何百回と失敗しますが、神は私たちを赦してくださいます。
ペテロはイエスを三度否んでしまいましたが、イエスはペテロの罪、弱さを赦し、回復させ、立ち上がらせてくださいました。後にペテロは手紙に書いています。主は、、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(Ⅱペテロ3:9)
信仰の長さとは何でしょうか。これからも私たちの信仰生活は続きます。クリスチャン生活は短距離走ではなく、マラソンであると言われます。自分の信仰が成長&成熟することを願いましょう。ゴールがあります。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離さないでいましょう。へブル人への手紙12:1にこのように書かれています。私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
3.愛の高さ
キリストの愛は天より高いです。天から降りてくる高さです。それが受肉です。神であるイエス・キリストが人間を救うために、人間の赤ちゃんとして生まれてくださいました。クリスマスです。この地上ではあり得ない愛です。今、主イエスは天において大祭司として私たちのためにとりなしておられます。
私たちはイエス・キリストを通して、天へ行くことができます。信仰の高さとは何でしょうか。飛行機の中から下の景色を見ると、全てが小さく見えます。家があり、ビルがあり、車が走っています。船が見えます。地上で見ると、それらのものは大きく見えますが、上から見ると小さく見えます。これが神の視点です。
空から見た東京の景色
この地上で人間的な視点で見ると、問題は大きく見えるかもしれません。悪魔が強そうに見えるかもしれません。でもそれは正しい見方ではありません。私たちは天から見ることができます。これが神の視点であり、正しい見方です。問題は小さく見えます。悪魔はちっぽけに見えます。
全てを治め、歴史を支配しておられる、神ご自身に信仰をおきましょう。四方八方がふさがれていると感じる時に、天を見上げて、神に祈りましょう。神は解決を与えてくださると信じます。
4.愛の深さ
イエス・キリストの愛は十字架に架かってくださるほどに深いものです。天からこの地へ下ってきてくださり、十字架というどん底へと落ちてくださいました。私たちを救うためにです。どん底にいる人を救い上げる深い愛です。そして十字架に架かってくださり死なれましたが、復活の前に主イエスは黄泉の底(地獄)まで下ってくださったのです。私たちが黄泉(地獄)へ行かなくてよいようにです。
私たちの罪は海の深みに投げ捨てられています。私たちの罪はイエス・キリストの十字架の血潮によって赦され、聖められています。黄泉へ行かなくていいのです。主イエスの愛が深いので、私たちは天国という高みへと行くことができるのです。
信仰の深みとは何でしょうか。イエスは漁師のペテロに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」(ルカの福音書 5:4)ペテロは夜通し漁をしたのですが、何一つ取れなかったのです。でもペテロはイエスのお言葉に従い、深みに漕ぎ出し、網をおろしました。するとどうでしょう。たくさんの魚が入り、網が破れそうになったのです。
奇跡の漁/ドメニコ・ギルランダイオ作(1449-1494)
主イエスは私たちに「深みに漕ぎ出しなさい」と招いてくださっています。もっと霊的に深い領域があるのです。まだ私たちが知らない聖霊による働きがあります。それは深みに漕ぎ出していかないと体験できません。そのために大事なのは、柔軟な心です。浅瀬で満足しないようにしましょう。ペテロがイエスの招きに応答したように、私たちも応答していきましょう。
教会により、神の栄光が現わされます(21節)。今は個人主義の時代なので、教会が軽んじられる傾向にありますが、神のご計画の中心は教会にあります。確かに救いはイエス・キリストによります。しかし私たちは教会という現場で霊的に成長することができるのです。主イエスの愛は、広く、長く、高く、深いです。
私たちの信仰が広く、長く、高く、深く成長し、そのようなクリスチャンが集まる教会によって、神の栄光はあらわされていきます。「主よ、私の信仰を広げてください、私の信仰を長くしてください(忍耐力を与えてください)、私の信仰を高めてください(神の視点を与えてください)、私が深み(新しい領域)へと漕ぎ出し、神の栄光を見ることができるように祝福してください」と祈りましょう。
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