コロサイ人への手紙はコロサイ教会が異端の教えによって惑わされ、混乱していたので、使徒パウロが書いたものです。異端の教えは、様々な方面に及びます。今回はどちらかというと細部に関しての説明になります。前回は、大きな点について書きました(参考:https://canaan.blog/victory-over-the-devil)。現代において何が異端の特徴か?二つあると言いました。一つは聖書だけが正典であることを否定し、独自の聖書以上に権威がある書物を持っていること。もう一つは三位一体(父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊)を否定すること、特に主イエスの神性を認めません。惑わしの時代である現代、私たちはキリスト教の異端に注意をしなければなりません。外側はキリスト教っぽいので、騙されやすいわけです。
そして「悪魔に対する勝利」と題して、霊的な戦いで、悪魔に勝利するために神が私たちに与えてくださっている「神の武具」を見ました。現在、この瞬間も、目に見えない世界で霊的な戦いが繰り広げられています。悪魔が働いています。もちろん神も働いておられます。悪魔の策略に立ち向かうために必要なものは、「神の武具」です。何も持たないで戦いに行く人はいないでしょう。私たちにも「神の武具」が必要です。神は7つの武器を備えてくださっています。真理の帯、正義の胸当て、福音の靴、信仰の大盾、救いの兜、御霊の与える剣である神の言葉、祈りです。
執筆中のパウロ
さて、今日の個所に入ります。コロサイ教会に侵入していた異端の教えは、禁欲主義的なものだったようです。食物規定など(16節)。ただ、これだけでは異端とは言えないと私は考えています。でも二つの点(聖書以外の権威、三位一体の否定)でずれると多くの場合、異端の教えは他の点においてもずれてくる傾向にあるわけです。
16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、21 「すがるな。味わうな。さわるな」とうような定めに縛られるのですか。22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(コロサイ人への手紙 2:16-23)
食べ物と飲み物についての規定を絶対に守るようにという教えです。旧約聖書のレビ記11章に出てきます。食べてもよいきよい動物、食べてはいけない汚れた動物。現代でもこの種の規則的なものが教会にある場合があります。この肉を食べてはいけない、このお酒を飲んではいけないといったようなものです。イエスはどのように教えられたでしょうか。すべての食物はきよいとされました(マルコの福音書 7:19)。これもダメあれもダメ。そうではなく、これも大丈夫、あれも大丈夫です。
食物は排泄されれば、それで終わりですが、心に入ってくるものは長い間、影響を与えます(マルコの福音書 7:20-23)。外側の規則よりも心の内側の方が重要であることをイエスは教えています。~してはいけないという禁止命令よりも、イエス・キリストに結び付くことの方がはるかに大切です。使徒パウロはどのように考えていたでしょうか。ローマ人への手紙 14:5,6にはこのように書かれています。5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。パウロは、信仰の根本問題ではない点については、それぞれが確信した所に歩みなさいと教えていました。
祭りもそうです。ユダヤ人たちは過ぎ越しの祭り、五旬節、仮庵の祭りなどを守っていました。パウロがここで言っているのは、それらは影で、本体はキリストにあるということです(17節)。本体であるイエス・キリストが来られて、それらのものは過去のものになりました。では旧約聖書を学ぶ必要はないのでしょうか?そんなことはありません。旧約聖書も新約聖書同様、神の言葉です。新約聖書との違いは、旧約聖書は影であり、型であるということです。旧約の物語や人物などを通して、イエス・キリストがもっとくっきりと、鮮やかに見えてきます。例えば、父アブラハムが子イサクを捧げました。ここに父なる神と御子イエス・キリストを見ることができます。父が子を捧げる。この記述によって、もっと十字架が鮮やかに私たちに迫ってくるわけです。
私たちは律法主義によって縛られてはいけません。私たちは福音によって自由になったのです。でも現代の教会においても、律法主義によって、窮屈で不自由なクリスチャン生活をしている人がいます。異端の対極にあるのが、正統的な教え、すなわち福音です。主イエスの十字架と復活です。イエスは律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来たのです(マタイの福音書 5:17)
福音は私たちを自由にします。じゃあ、何でも好きなことをしてもよい、罪を犯していいんだ、ということではもちろんありません。でも、真理は私たちを自由にします。真理であられるイエス・キリストを通して私たちは自由にされています。私たちは自由を得るために神に召されたのです。ガラテヤ人への手紙 5:1にこのように書かれています。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
悪魔はまずどのように私たちを真理から遠ざけようとするのでしょうか。だましごとの哲学によってです。8節に「だましごとの哲学」に注意しなさいとあります。知識中心&人間中心主義のギリシャ哲学に気を付けなさいとパウロは書いています。真の知識、真の知恵はイエス・キリストのうちにあります(2:3)。現代で言えば、世俗的なヒューマニズム(人間中心主義)でしょう。それらによくよく注意しなければなりません。それは世俗的な主要メディアを通して常に流されている思想です。目に見えるものを何よりも重視します。目に見えない神を否定します。物質主義、過度にお金を求める、神を排除した人間中心主義です。
そして「良い行い」によって人は救われる、神による救済は必要ないと教えます。肉体の苦行などです。宗教改革者のマルチン・ルターは模範的な修道僧で、行いだけで見れば、他の修道僧よりも優れていました。しかし、彼には平安がなく、自由がなく、喜びがありませんでした。ルターは、修道院でたいへんまじめに祈りと聖書研究、断食に奉仕、そして清い生活に努めます。その結果早くも2年後には司祭に任じられて、ミサを執り行うようになります。しかし、非の打ちどころのない修道士としての生活をしていたものの、自分の内面を見て落ち込み、神の御前における罪に苦しみ、罪の告白によって懺悔をしても、神の御前に罪の赦しが得られたという確信が得られず、苦しみもがいていました。彼はキリスト抜きで自分の力によって罪を克服しようとして苦悩したのです。
そんなルターでしたが、勉学の方は順調で、29歳で神学博士となり、翌年からは聖書教授として旧約聖書を、更に3年後には新約聖書の講義を受け持つようになります。そして「ローマ人への手紙」の講義に際し、ルターはかねてより自分を不安に陥れていた「神の義」について熟考します。
マルチン・ルター(1483 年-1546年)
ルターが困惑したのは、「福音のうちには神の義が啓示されていて」(ローマ人への手紙 1:17)という聖書の言葉でした。ルターの経験と相反していたからです。ルターにとって「神の義」は、それを満たすために努力すればするほど、自分自身のうちにある罪の性質がクローズアップされ苦しめられるものでした。しかし、続く「義人は信仰によって生きる」(ローマ 1:17)という聖書の言葉に注目しました。義人とは、自分の義によって生きる人ではなく、信仰によって生きる人、すなわち神が義と認めてくださったことに感謝して生きる人、であると考えます。ルターは、神の恵みにより、イエス・キリストの十字架によってすでに備えられていた「神の義」に気づきます。福音のうちに啓示されている「神の義」を正しく理解したとき、彼を苦しめていた罪の問題が解決され、完全な救いを喜ぶことができました。すでに聖書(パウロの手紙)の中に啓示されていた福音を再発見したのです。これは大いなる福音で、この福音は神の力です。そしてルターは当時の堕落していたカトリック教会とローマ教皇の教えに反し、「救いは行いによるのではない。ただ信仰による」と対抗(プロテスト)し、1517年に世界史においてもとても重要な宗教改革が起こりました。
ある人は目に見えるものが頼りないことに気づき、目に見えないもの、神に目を向けようとする人が出てきます。その時に悪魔はどのように働くのでしょうか。偽りの霊に導こうとします。天使礼拝など(18節)。礼拝されるべきは、神とイエスだけです。物質で満足できない人が真の神に向かえばいいのですが、残念ながら日本では、間違ったスピリチュアルな世界に向かう人が多いです。使徒ヨハネが書いています。愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです(Ⅰヨハネ 4:1)。霊だからと言って全てが良いわけではありません。偽りの霊、悪霊から来ているものがたくさんあります
間違った幻、聖書から逸脱したものは、神とイエスから人々を引き離していきます。三大異端と言われるエホバの証人、モルモン教、旧統一教会がまさにそうです。間違った霊から来ています。それが異端の教えに顕著に表れてきます。結局、彼らはイエス・キリストの神性を否定します。外側は教会やクリスチャン、聖書という言葉を使いますが、完全に逸脱しています。そして、信者に恐れを抱かせようとします。そして何が起こるのでしょうか?不自由になるのです。異端の教えは、人に自由を与えるのではなく、人を不自由にし、奴隷のようにします。
現代人は自分たちが賢いと思っています(23節)。昔も今も変わりません。アダムの時もそうでした。「善悪の知識木」の実は賢そうに見えました。そして神のようになれると勘違いして、罪を犯してしまったのです。自分たちで善悪を判断できる、神は必要ない、と。しかし、これらの哲学、道徳、倫理、宗教によって、人は罪から自由になることはできません。人間を自由にするのは、イエス・キリストの福音だけです。イエスの十字架によって罪が赦され、罪責感からも解放されます。
私たちはイエス・キリストにあって自由になることができます。すでに自由にされています。様々なものによって、不自由にされたり、奴隷にされてはいけません。私たちはイエス・キリストによって、何から自由にされたのでしょうか?
①罪と罪責感、失敗から自由にされました。債務証書、払いきれない罪の借金がチャラにされたのです。イエス・キリストが十字架で私たちの負債を全て支払ってくださいました。
②劣等感から自由にされています。他人と比較することから自由になりました。他の人と比較する必要はありません。私たちは神に愛され、ユニークな存在として創られています。他の人の圧力によって不自由になる必要もありません。それぞれが神から与えられている使命に生きることが大切です。
③死から自由にされています。死の恐れからの自由です。なぜなら、主イエスが死を打ち破り、よみがえられたからです。イエス・キリストを信じる者には、復活のいのち、死に打ち勝ついのち、永遠のいのちが与えられています。
④悪魔の支配から自由にされています。私たちはこの世の神である悪魔の支配から脱出できました。そして神の支配に移されたのです。霊的な出エジプトをしたのです。せっかく脱出できたのに、またこの世(罪の世界)と悪魔の方へ引き戻されてはいけません。
「キリストにある自由」に留まり続けましょう。
スポンサーリンク