3月2日から受難節が始まっていますが、いよいよ今週は受難節のクライマックスである受難週です。イエスの受難(苦しみ、十字架)を覚えて、悔い改めの心を持って過ごす一週間になります。そして、来週4/17がイースター(復活祭)です。十字架と復活はキリスト教信仰の中心です。
33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒をのませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、36 そこにすわって、イエスの見張りをした。37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうかみることとしよう」と言った。50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。(マタイの福音書 27:33-54)
『十字架上のキリスト』/ ジョット
イエスは十字架の死を目前に恐れました。イエスは心を備え祈るために、ゲツセマネの園へ行かれました。そこで父なる神と会話し、祈り、ついには神の御心に従う決意と覚悟をかためました。
ユダの裏切りもあり、イエスは捕らえられてしまいます。その後、裁判などがあり、「十字架につけろ」と民衆は叫びました。そしてむち打たれ、ご自分が架かる十字架を背負い、ついにイエスはゴルゴタの丘に着きます(33節)。兵士たちはイエスに苦みを混ぜたぶどう酒、今で言えば麻酔みたいなものでしょうか、痛みを和らげるものですね、それを飲ませようとしましたが、イエスはお飲みになりませんでした(34節)。人類の罪という苦痛を少しも避けようとしなかったのだと思います。
本来、十字架の真ん中につくのはバラバでした。ところがバラバの代わりに罪を全く犯していないイエスが真ん中の十字架につけられました(38節)。それはちょうど3人の中でイエスが一番の罪人であり、首謀者であるような印象を群衆に与えたことでしょう。
群衆はイエスをののしりました。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(40節) これは十字架から逃れる最後の誘惑でした。イエスが人類の罪を引き受けなければ、全人類が罪に定められてしまいます。私たちにいのちを与えるために、イエスはいのちを捨てられました。イエスは十字架から降りる力を持っていましたしたが、降りませんでした。
祭司たちも「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」(42,43節)と言ってあざけりました。十字架を逃れる誘惑が次々にやってきました。ついには、イエスと一緒に十字架にかかっている強盗までが、イエスをののしったのです(44節)。
しかし、並行箇所のルカの福音書23:40,41節を見ると、一人の強盗は心を入れ替えているのが分かります。彼は自分の罪を悔い改め、イエスの無罪を宣言したのです。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 それはイエスの「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)という赦しの祈りを聞いたからだと思います。この祈りを聞いた強盗は、目が開かれて、自分の罪の赦しを願ったのです。
彼はイエスに言います。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42)とへりくだって憐れみを求めました。すると、イエスは彼に約束しました。「あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43) 彼の願いはかなえられ、この強盗は救われました。彼は自分の罪の罰を受けなければなりませんでしたが、神の前で罪が赦されたのです。彼には残された時間はほとんどなく、良い行いをする時間はありませんでしたが、神の恵みによって、また彼の悔い改めと信仰によって救われたのです。
イエスの右と左にいた二人の犯罪人は、全く違う結末を迎えました。二人とも罪人です。一人は最後まで悔い改めることをしませんでした。彼の結末は地獄です。しかし、悔い改めたもう一人の結末は天国です。天と地の差が生まれました。二人ともイエスの近くにいたのです。同じ救い主であるイエス・キリストを間近に見ていました。でも、その反応は正反対のものになりました。それは現代も同様です。
お昼(12時)になると、全地が暗くなり、午後3時まで続きました(45節)。マルコの福音書15:25によると、イエスが十字架につけられたのは、午前9時でした。ですから、十字架にかかって3時間後に全地が暗くなったわけです。神の裁きが起こる気配がします。
イスラエルの民がエジプトを脱出する時も全地が真っ暗になりました。モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった(出エジプト記10:22)。この後、イスラエルの民は小羊の血の力によってエジプトから脱出できたわけです。これが最初の過ぎ越しの祭りでした。これはイエスの十字架を預言的に示していました。イエスは神の小羊として、罪のための犠牲のいけにえとして捧げられたのです。
イエスは過ぎ越しの祭りの日に、十字架にかけられました。それも同じ時間です。祭司たちは一日に二度犠牲のいけにえを捧げていました。午前9時と午後3時です。イエスは午前9時に十字架に架かり、午後3時に息を引き取りました。
午後3時頃、イエスは大声で叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(46節)これは詩篇22:1のダビデの歌から引用したものです。魂の苦悩、神と断絶された、神から引き離された苦しみの叫びです。
今までは「父よ」と祈っていたイエスでしたが、ここでは父よ、と祈ることはできませんでした。なぜでしょうか。この瞬間、イエスは、神に完全に見捨てられた罪人として十字架に架かっていたからです。呪われた者として十字架に架けられていました。ガラテヤ人への手紙3:13にこのようにあります。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。キリストが呪われた者となってくださったので、私たちに祝福が与えられているのです。
アブラハムがイサクを捧げた出来事が聖書の一番最初の書物である創世記に記録されています。その場所がゴルゴタの丘であったと言われています。父が子を死なせる、これは非常に苦痛な出来事です。神が介入されアブラハムは幸いにもイサクを死なせずにすみました。しかし、イエスの場合は違いました。神は介入されなかったのです。この時の父なる神の苦しみ、痛みはどれほどのものだったでしょうか。我が子を失う苦しみは想像を絶するでしょう。
二人の人が溺れているとします。自分の子と他人の子です。一人しか救い出すことができません。普通、どちらを助けますか。自分の子を助けるでしょう。しかし、父なる神はどうされたのでしょうか。神は私たちを助けられたのです。私たちと御子イエスが溺れている。父なる神は私たちを救い出したんです。イエスは十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神。どうして私を見捨てられたのですか」それを聞いた父なる神は心を動かれたでしょう。心が痛んだでしょう。でも、父なる神はイエスを助けずに、溺れるままにしました。十字架に架けられたままに、死なれるままにしたのです。なぜなら、イエスを助けてしまったら、彼のいのちを救ってしまったら、私たちに命が与えられないからです。ここに神の愛をはっきりと見ることができます。
イエスは「わが神、わが神。どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばれました。私たちが、本来自分の罪のゆえに神から引き離された場所である地獄で、この叫びをしなくてよいように、イエスが身代わりに叫んでくださった、罪の罰を引き受けてくださったのです。罪がイエスを十字架につけました。私たちの罪がイエスを十字架にはりつけにしたのです。ですから、私たちはその罪を忌み嫌いましょう。
イエスはもう一度大声で叫んでから、息を引き取られました(50節)。ヨハネの福音書19:30によると、これは「完了した」という言葉です。救いが完了したというイエス様の勝利の叫びでした。人間がどんなに頑張って努力しても救いに到達できません。人間は不完全だからです。だからこそ、天から完全なお方イエスが下りてきて、救いを成し遂げてくださったのです。
イエスが息を引き取られた時に、3つのことが起こりました。
①神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。聖所と至聖所とを隔てていた幕が裂けたのです。旧約時代、大祭司が年に一度しか入れなかった特別な場所、非常に聖い場所である至聖所への幕が裂けました。すなわち、イエスを通して私たちは誰でも祭司として神に近づく道が開かれたということです。これは新約の時代の恵みです。大胆に神の恵みと助けを受けるために神の御座に近づくことができます(へブル人への手紙4:16)。
②地が揺れ動き、岩が裂けました。③墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返りました。(そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れました。)
百人隊長たちは、これらの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」(54節)と告白しました。私たちも神の恵みによって、「イエス様は自分の救い主です」と告白ができています。今週は受難週です。イエス様の十字架を見上げて歩んでいきましょう。
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