神はアベルの捧げものには目を留められましたが、カインの捧げものには目を留められませんでした。聖書にはこのように書かれています。
5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。7 あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:5-7)
何が違いをもたらしたのでしょうか? それはアベルがその捧げものを通して、自分は罪人であり、罪の赦しが必要であるとの自覚から礼拝を捧げたのに対して、カインはそうでなく、自分の労働を誇って神の前に出たのです。アベルは羊の初子をほふり、「血を流して」神を礼拝しましたが、カインは「血を流して」礼拝をしませんでした。それが二人の決定的な違いだったのです。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(へブル人への手紙9:22)
カインとアベルは両親(アダムとエバ)から、自分たちで作ったいちじくの葉っぱでは自分たちの罪や恥を隠すことができず、神の前に立つことができなかったので、神が動物を犠牲にして皮の衣を用意してくださったことを聞いて知っていたはずでした。それでも二人の礼拝の仕方は全く違うものとなりました。
マリオット・アルベルティネッリ『カインとアベルの犠牲』
私たちも神に礼拝を捧げますが、残念ながら全ての人の礼拝が神に受け入れられて、神の目に留まるとは限りません。礼拝には悔い改めと謙遜が必須です。神はへりくだりを喜ばれます。ダビデは賛美しました。 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)
へりくだりとは、自分を正当化しないで、自分に過ちがあると認めることです。神は高慢を一番嫌われます。常に自分を義とする精神です。神は高ぶる者を低められます。みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(ペテロの手紙第一 5:5,6)
カインには労働の意欲、感謝の気持ちがありました。しかし、彼には罪の意識がなかったのです。ですから、当然悔い改めもありませんでした。新約的に言えば、彼は信仰による義ではなく、自分自身の行いという義によって神の前に立ったのです。彼には信仰がありませんでした。一方、アベルは、皮の衣を着ていた両親を通して、自分は罪人だと自覚し、羊をほふって血を流して、神の前に立ちました。神は聖であられ、血なしで神に近づくことができるとは考えませんでした。彼は神の方法に従ったのです。それはやがて来られる神の小羊イエス・キリストに対する信仰告白にもなりました。
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(へブル人への手紙11:4)
ある意味カインは世界で最初の宗教を作り、神に到達しようと考えたのです。宗教とは、人間が考えて作り出し、自分たちの方法で神に近づこうとすることです。ちょうどアダムとエバが自分たちでいちじくの葉を用意して恥を隠そうとしたようなものです。カインは、神が父アダムに与えた血による贖いという救いの啓示を否定しました。彼は神の方法に従わなかったのです。
神はカインとカインが捧げたものの両方に目を留められませんでした。彼は自分自身と自分の捧げものが神に受け入れられなかった時に、へりくだって神の御心を求めるべきでした。しかし、彼は反対に憤ってしまったのです。この時から彼の堕落は始まりました。
私たちの前には常にカインの道とアベルの道があります。それは自分に頼る道(死の道)と神に頼る道(いのちの道)です。死ではなく、いのちを選び取りましょう。
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