アダムとエバの夫婦は神に反逆し、罪を犯し堕落してしまいましたが、神への信仰は失っていませんでした。家庭で子供たち(カインとアベル)に神のことについて、エデンの園での生活について、自分たちが作ったいちじくの葉や神が与えてくださった皮の衣などについて話したに違いありません。それらの話が成長したカインとアベルの神への捧げものにつながっていきます。聖書にはこのように書いてあります。
3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。(創世記4:3,4)
神に目を留められる礼拝とはどのようなタイプのものなのでしょうか?
イエスは言われました。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4:23,24)
使徒パウロは書いています。そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)
『カインとアベルの捧げ物』(1860)
アベルは皮の衣を着る両親の姿を通して、自分にも罪があり、自分が罪の赦しを必要としている存在であることを自覚していました。そして神に近づく道は、犠牲の血にあることをよく知っていたのです。ですから、彼は羊をほふって血を流し、その捧げものを神の元へ持って行きました。これはまさに神の小羊であるイエスの十字架の血をあらわしています。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。(ローマ人への手紙3:23-25)
血を流すことなしには、罪の赦しはなく、神に受け入れられることはないのです。アベルの礼拝は彼の信仰告白にもなりました。神が喜ぶのは、砕かれてへりくだっている人、悔いた心です。神はアベルと彼の礼拝を喜ばれ、目を留められました。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(へブル人への手紙9:22)
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(へブル人への手紙11:4)
アベルの礼拝には信仰が伴っていましたが、カインの礼拝には信仰が伴っていませんでした。カインは自分自身の努力によって神に近づいたので神に受け入れられなかったのです。
人は行いでは義と認められることはできません。人は不完全なので、神に到達することはできないからです。カインの道は宗教の道と言えます。下から上への道、人から神への道です。一方、アベルの道は、福音の道です。上から下への道、神から人への道です。神であるイエスが、人を救うために人としてお生まれになってくださいました。これが福音(良き知らせ)です。人にはできないことを神がしてくださいました。
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ人への手紙2:16)
スポンサーリンク