4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3章4-6節)
エバの返答(創世記3章3節・参考 https://canaan.blog/temptation-of-devil/)に対して、蛇(悪魔)は言いました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(4,5節) 蛇は「決して死にません」と神のことばを否定し、嘘をつきました。悪魔は偽り者であり噓つきです(ヨハネの福音書8章44節)。しかし、蛇はエバに「取って食べなさい」とは言いませんでした。サタンは誘惑をしますが、決して自分が責任を取ることはありません。結局責任を取るのは、誘惑に負け罪を犯した人間なのです。悪魔の堕落は、自らが神のようになろうとしたことにありました(イザヤ書14章12-15節)。エバに対しても「あなたがたは神のようになれる」と自分がたどった道を人間にも経験させてやろうと、神が愛している人間を破滅させようと企んでいます。21世紀においても、「あなたは神のようになれる」というようなことが書かれている本が出版されています。騙されてはいけません。人は神にはなれません。それは人間を破滅させる悪魔の働きです(テモテへの手紙第一 4章1節)。
『人間の堕落とエデンの園』(1617年、マウリッツハイス美術館) 本作品は、1617年に制作されたルーベンスとヤン・ブリューゲルの共作作品であり、人物部分をルーベンスが、動物・静物部分をヤン・ブリューゲルが担当した。
悪魔の策略は、「神は本当にそのように言われたのですか」と問いかけ、神のことばや神の愛を疑わせることにあります(1節)。悪魔は神のことを良く知っています。そういう意味では神学者の中の神学者と言えます。この時代も様々な神学者がいます。ある神学者は神のことばを疑わせ、聖書のことばを神話化しようとします。聖書の言葉を文字通り受け取ることを愚かなことだとして、信じることを躊躇させようとしています。本当に気を付けなくてはいけません(ガラテヤ人への手紙1章6,7節)。
そこでエバが見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった(6節)のです。イエスの弟子ヨハネは記しています。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(ヨハネの手紙第一 2章16,17節)
イエスの弟ヤコブは警告しています。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。(ヤコブの手紙 1章13-16節)
ジョン・ミルトン(1608年-1674年)/イギリスの詩人。
エバは、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするように見えたその木の実を取って食べました。そしてその後、アダムもその実を食べてしまいました(6節)。アダムは罪の罰の重さをよく知っていたのに、なぜ妻の勧めに従って実を食べてしまったのでしょうか。それは愛する妻を一人死なせるには忍びなく、共に死のうと覚悟したのかもしれません。イギリスの作家ジョン・ミルトンは『失楽園』で、アダムが死を恐れ、その手はおののきふるえつつ木の実を食べる場面を描いています。このアダムの姿は、第二のアダムであるイエス・キリストが、ご自分の妻となる教会のために、罪そのものとなり、十字架の死を遂げるひな形であると言えます。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた(エペソ人への手紙5章25節)。しかし、アダムがエバの勧めに従って善悪の知識の木の実を食べたことはもちろん神に喜ばれないことであり、それは神に対する重大な罪であり、神に対する反逆行為でした(ローマ人への手紙5章18,19節)。
このようにして最初の人間アダムとエバは、悪魔の策略によって欺かれ騙され、神に反抗し堕落してしまったのです。この世界に罪が入ってきてしまいました。罪は恐ろしく、感染力が強く、人間を不幸にし、人間社会を破壊していきました。私たちが日々の生活で見ている通りです。その始まりがここだったのです。
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