神は人の創造をもって天地創造のわざを完成され、休まれました。六日間働いた後、七日目に休まれたのです。そして神は七日目を祝福し、この日を聖であるとされました。「聖」はヘブル語では「カドーシ」が使われていて、「分離」を意味します。第七日目は、他の日とは分離された特別な日でした。聖書にはこのように記されています。
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(新改訳聖書 創世記2:1-3)
聖書には安息日の原則があります。7日間に1日は必ず休むという原則です。後にこれは律法によってイスラエルの民の法律とされました。
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。—あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も—11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト記20:8-11)
休まないで働き過ぎると燃え尽き症候群になってしまいます。週に一日は仕事から離れることが大切です。意識して休みの日を設けることが大事です。家族や友人と過ごす、外を散歩する、外食に行く、スポーツをする、読書をするなどしてリフレッシュするなら、また新しい気持ちで仕事に取り組むことができるようになります。人生を満喫し、人生を楽しみましょう。仕事だけが生きがいになってはいけません。何か趣味を持ち、気分転換するなら、ストレスが発散されるでしょう。ストレスが溜まってしまうと、結果としていい仕事もできなくなってしまいます。
クリスチャン生活、教会生活、ミニストリー(働き、奉仕)は短距離競争ではなく、長距離競争(マラソン)です。短期間物凄く頑張っても、途中でやめてしまっては残念な結果に終わってしまいます。そうではなく、とにかくたとえゆっくりであったとしてもマイペースで忠実に走り続けることが大切です。そのためにも休むこと、水の補給が絶対に必要です。それは体のためにも、心(精神)のためにも、霊のためにも必須です。休むことによって、次の日から仕事をする新しい力が与えられるからです。
礼拝においてもそうです。日曜日は聖なる日です。一週間守られたことを神に感謝し、神の御前に休み、憩う日です。すべての重荷を神の前に降ろし、抱えている全ての問題を神にゆだねて、新しい一週間を始めるのです。
現代はスマ―トーフォンやパソコンがあってすぐにつながってしまうので、休むことが難しくなっている時代と言えます。公私が分けにくくなっているのです。そのように感じている人は、スケジュール帳に「休みの日」と書くといいでしょう。休むことをその日のスケジュールとするのです。そしてなるべく仕事と関係がないことをすることをお勧めします。仕事と関係がある本などを読んでしまうと、仕事モードに入ってしまうかもしれないからです。意識して仕事と関係がない本を読んだりするといいのではないでしょうか(のちのち仕事に役立つことが結構あったりするものです)。
休みをしっかりと取った方が休まずに働き続けるよりも、長期間に渡って教会の働きを継続していくことができると思います。教会の働きを途中でやめてしまうケースがあまりにも多いような気がします。正直、長い間燃え続けることは難しいです。長く教会生活を続け、働きをしていると退屈に思えてくる時があるでしょう。その時に大事なのは、休むことです。場合によっては長期間休んでもよいでしょう。休むことによって、体、心、霊がリフレッシュされ、働きをする力が新しく与えられます。これは神が定めた原則なのです。もちろん忙しい時があり、どうしても休むことができずに働かなければならないことがあると思います。特に事業や働きを新しく立ち上げた時などはそうでしょう。その時は例外として働いて良いと思います。なぜなら人生には集中して働く時というのがあるからです。でもあくまでそれは例外であることを覚えましょう。休むことに罪悪感を覚えてしまうのが日本人の性質かもしれません。しかし、休んでよいのです。休むことは良いことなのです。休むことによって新しい力が与えられて、生産的な仕事ができるようになると信じます。
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