5000人の給食(ヨハネの福音書6章1-15節)では「見えるパン」がテーマでしたが(参考 https://canaan.blog/the-feeding-of-the-5000)、続きの下記では「見えないパン」がテーマになっています。
6:16夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。 6:17そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。 6:18湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。 6:19こうして、四、五千メートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。 6:20しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 6:21それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。6:22その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。 6:23しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。 6:24群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。 6:25そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」 6:26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 6:27なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」 6:28すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」 6:29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 6:30そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。 6:31私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」 6:32イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。 6:33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」 6:34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」 6:35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 6:36しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。 6:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 6:38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 6:39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 6:40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(新改訳聖書 ヨハネの福音書6章16-40節)
5000人の給食の後、イエスの弟子たちは舟で湖を渡っていました。暗く(17節)、強風で(18節)、不安になったことでしょう。すると、何とイエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来るではありませんか。不安は増大したことでしょう。弟子たちは幽霊かと思って恐れました。イエスは彼らに言います。「わたしだ。恐れることはない。」(20節) 彼らから恐れは取り除かれ、喜んでイエスを舟にお迎えしました(21節)。そして舟は目的地に無事着きます。
私たちも人生において、こちらの岸から向こうの岸へと湖を渡っています。働きや仕事をしています。状況が暗い時があります。強い風が吹いて中々前に進めない時もあります。しかし、イエスは私たちに近づいて来られ、「わたしだ。恐れることはない。」と仰って下さいます。イエスを私たちの舟に、私たちの人生に喜んでお迎えしましょう。
それはイエスに舟の舵を取ってもらうということ、人生の進む方向を任せるということです。そうすれば、場合によっては思いもよらない方向、想像もしていなかった場所(領域)へ行くことになるかもしれませんが、神が備えてくださっている目的地に着くことができます。それが最善の場所、最善の領域でしょう。なぜなら神は私たちの最善を知っているのですから。だから恐れないでいましょう。聖書には366回「恐れることはない」と書かれています。毎日、神は恐れやすい私たちに「恐れることはない」と語っていてくださいます。
5000人(2万人)の給食の奇跡を見た群衆は、イエスを捜してカぺナウムにやってきました(24節)。イエスは彼らに言います。「あなたがたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹したからです。」(26節)
主イエスは私たち人間が生きるためにパン(ご飯)が必要であることを知っておられます。神は私たちの必要を満たしてくださいます。「でもそれだけが私を捜している理由ならば、何かが違っています」と群衆に語られました。群衆には自分の罪に気づき、罪を悔い改め、新しい歩みをするという願いがありませんでした。霊の領域に対する飢え渇きがなかったのです。考えていたのは体のこと、生活のこと、目の前のことだけでした。結局彼らはモーセの時代のように、天からのマナ(パン)で自分たちを養ってくれるメシア(救い主)を求めていたに過ぎませんでした。
ですからイエスは彼らに言われました。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(27節)なくなる食物(パン)ではなく、なくならない食物(パン)を求めなさいということです。
主は山上の垂訓でこのように言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:33)キリスト者には順番があります。まず神の国です。これが優先順位のトップにきます。まず神ご自身です。神の栄光が現れることです。イエスのお名前がほめたたえられ、イエスの素晴らしさが広められていくことが最優先事項です。そのために、礼拝があり、賛美があり、説教があり、祈りがあり、献金があります。そうすれば、神が私たちの生活に責任を取って下さいます。そうでないならば、私たちは自分たちの生活の責任を自分自身で全て負っていかなければならなくなります。
群衆は言います。「何をすべきでしょうか」(28節)イエスは答えます。「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(29節) 神が遣わした者とは誰でしょうか。イエスです。これはクリスマスのメッセージです。イエスを信じることが、神のわざです。それは人のわざではありません。聖霊によってしか、人は「イエスが自分の救い主である」と告白することはできません。
彼らは問います。「信じるために、しるしとして何をしてくださいますか(30節)、私たちの父祖たちは荒野でマナ(パン)を食べました。これが毎日40年間続いたのです。あなたの奇跡は一回だけなのですか。それでは私たちは困ります。毎日のようにしるしを持って食べ物を与えてください」
イエスは答えます。「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります。といのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」(33節)そこで彼らは言いました。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」(34節)
これはサマリヤの女のようです。彼女もイエスが「いのちの水」であることを話すと、井戸に水を汲みにくることが大変だったので「私が渇くことがなく、もうここにくみにこなくてよいようにその水を私にください」(ヨハネの福音書4:15)と言いました。
この願いは間違っていません。イエスは主の祈りで「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るように勧めています。私たちの体のために食べる物は絶対に必要です。しかし、食に執着するなら問題と言えるでしょう。人は体だけで生きている存在ではありません。人は霊的な存在です。人間にとって一番大事なのは体ではなく、霊の部分です。イエスが荒野で断食をして飢え渇いている時に、悪魔から「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(マタイの福音書4:3)と誘惑されました。それに対してイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイの福音書4:4)と答えられました。
神の口から出る一つ一つの言葉である聖書を読むことを通して、聖書の言葉を聞くことを通して、私たちの霊が強められます。なぜなら、聖書は聖霊によって書かれた神の言葉だからです。もし一日食べなかったら、私たちの体は弱くなります。同じように一日聖書を読まないと、私たちの霊は弱くなり、知らず知らずのうちにいつの間にか神から離れていってしまうのです。
イエスは言われます。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35節) 私たちはイースターでイエスの復活をお祝いしましたが、死を打ち破ったイエスが私たち「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせます」(39,40節)
イエス・キリストはいのちのパンです。このパンを食べるなら、すなわちイエスを信じるなら、私たちは永遠のいのち(復活のいのち)が与えられ、死んでも生きることができます。神が私たちをよみがえらせてくださいます。ここに私たちの希望があります。
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